アクトオブキリング

あの時、友人・知人・恋人なんかに対してひどいことをしてしまった事を洗濯物や洗い物なんかをしている時にふいに思い出しその時は何も感じなかったのに、今になってひどく当事者の気持ちになって心をひどく痛める事は誰しも覚えがあると思う。 私は何者だったのか、何故あんなひどい事ができたのか。周りに言われたから?集団だったから?まわりの人達も同じ行動をとっていたから?

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映画では1965年インドネシアでクーデターが起こり、スカルノ大統領が失脚してから右派が左派の共産党狩りという名の大虐殺を始めた事件を虐殺をした本人たちに インタビューをし、それを加害者側も被害者側も演じて映画にしてください。というお題を与えて、完成するまでをドキュメンタリータッチにして追っていく。

集団やその場の雰囲気に流される事は恐怖だ。

自分を見失い、個人の考えがぶち壊される環境が作られてしまう。

ドキュメンタリーでは共産主義者を片っ端から虐殺していた集団のリーダーのおじいちゃんにスポットをあてながら話は進んでいく。舞台になる村では英雄と周りから讃えられていて、人をどうやって虐殺したのかを笑みをほころばせながら、誇らしげに語り始める。

インタビュー中では、常に誇らしげだし笑顔だったおじいちゃんが、虐殺シーンを演じていくにつれて、表情がくもっていく。それまで口をついて出ていた武勇伝がなくなる。沈黙。それまでとは反対な事をぽつりぽつり言い始める。「殺した人たちの夢にうなされてた」「私を恨んでいるだろう」

過去の気持ちや考え、行動は今振り返って自問自答してもその時の自分のものだ。今自分を責めても取ってしまった行動と結果はもうどうにもならない。だけど振り返って自分自身に立ち返ることで、自分に変化をもたらすことが出来る。

おじいちゃんの心の本質ではこれはおかしいんじゃないか。と疑問に思っていたのではないか。しかし共産主義弾圧という現実がすべての暴力を肯定する。そのアンバランスな現実でバランスをとっていたものが、演技(当事者になる)を通して崩れ自己の考えを肯定する方向に傾いたんではないか。

おじいちゃんは最後は人間性を少しはとりもどせたのか。

ラストシーン、おじいちゃんの後ろ姿が、虐殺した人との思いと生きて行かなければならない赦しなのか後悔の先にあるものなのかやりきれない決意のような印象を強く受けた。

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 しかし、全員悪。アウトレイジか!ってくらい性根が悪いボディーガードのおっさん(映画で女装してるのがすごくマツコに似てる。。)やみんなやってたもん。しょうもないっしょ今更的なひらきなおりおっさんも存在するわけで。これが人間の怖さを増していた。

イメージはおじいちゃん達が完成させた表現映画のラストシーン。ものすごい勘違い創大感でてます。

心理実験のようなある意味危険性をも考えられる映画を試みた監督の勇気に賞賛。

かなり心にずしりとくる映画でした。